歴史

創業

1917年、リンカーンはヘンリー・マーティン・リーランドによって設立された。 リーランドはキャディラックの創業者のひとりで、キャディラックがゼネラルモーターズに吸収された後も同部門の責任者を務めていた。

第一次世界大戦中、 リーランドは政府からの要請で航空エンジンの生産に乗り出そうとしたが、ゼネラルモーターズの創業者ウィリアム・C・デュラントに反対されたため、ゼネラルモーターズを辞して、自らエンジンメーカーのリンカーン・モーターカンパニーを設立した。 リンカーンは終戦までに6500基のリバティ航空エンジンを納入している。

戦後、リンカーンは高級車メーカーとして再出発を遂げた。リーランドはかつてのキャディラックで高性能なV型8気筒車を開発したノウハウを活かし、それを上回る時速80マイル(=約130km/h)を達成可能な「スーパー・キャディラック」ともいうべき高性能高級車を、リンカーンブランドで実現しようとしたのである。1920年9月に完成した最初の試作車は90PS以上の高出力で実際に80マイル・クラスの最高速度を実現、徹底した品質管理と群を抜いた性能によって大きな前評判をとった。

しかし、最初のリンカーン「モデルL」は発売当初こそ注目を集めたが、販売実績はほどなく急落した。原因はスタイリングであった。リーランドは機械的な精密さと高性能を追究することには熱心だったものの、スタイリングには無頓着であった。あいにくリンカーンが当初契約したボディ外注先のボディメーカー各社は、強度や仕上げの面はともかく、不格好で魅力に欠けた実用デザインしか施せず、富裕層に好まれるような美しいスタイルの高級ボディを作れなかったのである。自動車のボディが幌屋根のオープンタイプから、固定した屋根と窓ガラスを備えるクローズドタイプに移行し、ボディデザインの重要度が高まっていた時代に、これは致命的な弱点となった。

加えて戦後の不況や合衆国政府による戦時中の利益に基づく追徴課税がリンカーンを直撃、激しい財政難に遭遇し、その結果、1922年、リンカーンはフォード・モーターに買収された。 買収後もリーランドはリンカーンの責任者を務めていたが、フォードとの意見の対立からわずか4ヵ月後には会社を辞してしまう。リーランドの辞職を機に、リンカーンはフォード・モーターの高級車ブランドとして本格的に組み込まれていく事になるが、リンカーン・モーターカンパニーはフォード・モーターの子会社として1940年4月30日まで存続し、その後はフォード・モーターのリンカーン部門に吸収・再編されている。

フォード買収後の発展

フォード・モーターの創設者ヘンリー・フォードは当初高級車部門への参入には消極的だった。フォード・モーターも創立初期の頃には高級車を手がけていたが、大衆車フォード・モデルTの成功によって、モデルTの単一車種集中生産に邁進するようになり、市場の限られた高級車からは手を引いていたからである。

結局ヘンリー・フォードは、息子で名目上のフォード社社長であったエドセルにリンカーンを委ねることになる。この時エドセルは『父は世界一の大衆車を作ったが自分は世界一の高級車を作りたい』と決意を語ったという。

エドセルは幼い頃から父親の作る自動車や機械に触れ、また現場で叩き上げた職業人の父親と違って高等教育を受けた教養人で、欧州の自動車業界や社交界にも知己を持つなど、自動車に限らぬ幅広い知見を備えていた。特に自動車のスタイリングに関しては、自ら手がけることこそなかったものの、優れた批評眼を持つ人物であった。リンカーンを手中に収めてからのエドセルはアメリカのカースタイリングトレンドの中心人物になったといっても過言ではない。

エドセルはその見識と交友関係の広さを活かし、数々の有名コーチビルダー(当時の高級車の場合、自動車メーカーはシャーシーのみを製作、顧客の好みに合わせたボディをコーチビルダーで架装するのが一般的だった)と契約、優美なボディを架装することが可能となり、これによってリンカーンに商業的成功がもたらされた。ジャドキンス、ル・バロン、ブラン、ウィロビーなど、当時のアメリカの一流コーチビルダー各社が、顧客の嗜好に合ったスタイリッシュなボディを架装したのである。ほどなくリンカーンはキャディラックやパッカードなどと並び、アメリカを代表する高級車のひとつという評価を勝ち得ていく。

リーランド設計の初代V8モデル・Lシリーズは豪奢なボディに加え、1928年には排気量を拡大(5.9L→6.3L)して100psに出力向上、商品性を高めた。そして1930年には1931年モデルとして125PSの新型V8エンジンを搭載した「Kシリーズ」にモデルチェンジした。

更に同時代の高級車における多気筒エンジンブームを反映し、Kシリーズ・リンカーンにも翌1931年、「1932年モデル」として150PSのV型12気筒・7.3Lエンジンを搭載した「モデルKB」が追加される(V8モデルはKAとなり1933年まで継続。以降はKBが単にモデルKとなる)。12気筒KBの最高速度は時速100マイル(約161km/h)超という高水準で、高級車としての地位を確固たるものとした。

1927年からは、グレイハウンドを象ったマスコットがリンカーンのフロントグリル頂点を飾るようになり、現行のダイヤモンドの光芒を象ったエンブレムに変えられるまでの戦前期リンカーンの大きな特徴のひとつとなっている。

ゼファーと初代コンチネンタル

1936年、リンカーンはゼファーの投入によって、上位中級車市場(アッパーミドルクラス、もしくは高級車内の廉価クラス)にも進出、その斬新な流線型のスタイリングと相まって大好評をもって迎えられた。ゼファーはアメリカ車一般に流線型のスタイリングが普及する嚆矢となった車種として、自動車史上に名を留めている。

ゼファーは、流線型デザインの流行を慎重に見極めていたエドセルが、量産ボディ外注で関係の深かったコーチビルダーのブリッグス社が手がけた流線型試作車をベースに、ヨットデザイナーから転身した腹心のデザイナー、ユージン・ボブ・グレゴリーに命じ、当時のフォード社で欠落していた中級車の開発にあたって、アバンギャルドさを抑えながら進歩性をアピールできる流線型デザインを施させたものであった(リンカーン系であるゼファーと大衆車のフォードの間に位置する量販中級車としては、ゼファーの流れを汲むデザインの「マーキュリー」が1938年に発売されている)。メカニズムは特装ボディ前提で重量設計シャーシであったモデルKとは異なり、むしろ量産車のフォードの構造の大型化と言うべき平凡なものであったが、それでも高級車らしく、4.3L・110psのV型12気筒エンジンを搭載しており、全体の工作水準も高かった。

ゼファーは、ボディを社外コーチビルダーで限定生産するのではなく、系列コーチビルダーでの鋼鉄製ボディ集中生産で、高級車だが実質的に大衆車・量販中級車同様の大量生産方式を完全導入した早い事例となった(高級車でもある程度大きな生産規模を確保し、大量生産システムを適用することは、限られた例外を除き、21世紀初頭まで一般的となっている)。相前後して限定生産車の性格が強い最高級車モデルKの生産は1940年に終了、他の高級車ブランドでも同様な風潮が生じ、自動車メーカー系でない独立コーチビルダー各社は衰退への道をたどる。

その後エドセルはゼファーのコンセプトを発展させた車の開発に注力、その結果はリンカーンによって作られた中で最も成功した車といえる、初代のコンチネンタルに結実することになる。

コンチネンタルは表向き、エドセルがフロリダでの休暇中に乗るための特装車として開発された。 1938年、ヨーロッパ視察から帰国直後だったエドセルは、試作車のスタイリングを当時のヨーロッパ大陸で進行していたカーデザイン・トレンドを汲む欧州風(コンチネンタル)にするよう命じた。要望はボブ・グレゴリーによって巧みにアレンジメントされ、ゼファーをベースとしてトランク背面にスペアタイヤを立てた、美しいコンパーチブルモデルが仕立てられた。エドセル専用車名目とした背景には、会社の実権を握るヘンリー・フォードが、保守倫理の持ち主で贅沢な特注高級車の市販を好まず、開発を妨害されかねないため、これを避ける意図があったという。

エドセルが流麗な試作車をフロリダで乗り回した所、それを見た多くの富裕な人々がこの試作車の量産を熱望、エドセルはオーダーリストを盾に、父ヘンリーを説き伏せて市販車種とすることに成功した。こうして1939年、リンカーン伝統の車種コンチネンタルが誕生する。コンパーチブルやクーペを擁したコンチネンタルは、かつてのモデルKに代わるイメージリーダーとして、上流人士から非常な人気を集め、工業デザインとしても傑作と評された。

ゼファーとコンチネンタルは、ボブ・グレゴリーやゴードン・ビューリグなどの辣腕デザイナーの手で毎年細かなデザインチェンジを施され、堅調な売上を重ねた。リンカーン育ての親とも言えるエドセル・フォードは1943年に没したが、2つのリンカーン・シリーズは第二次世界大戦による1942年から1945年にかけての中断をはさんで、戦後も生産が続き、1948年まで作られた。1945年以降はかつてのモデルKにあたる超大型リムジンが存在しなくなったため、旧ゼファー系は単に「リンカーン」の名で販売された。

第二次世界大戦後の展開

1948年5月、前輪独立懸架と、幅広のフラッシュサイドボディ、新しい強化型のV型8気筒エンジンを搭載した完全戦後型の上級リンカーン「コスモポリタン」が1949年式として発表され、追ってマーキュリーとパーツを共用したスタンダードグレードの量販型リンカーンも発売された。生前のエドセル・フォードがボブ・グレゴリーと共に研究していた戦後型スタイルがようやく実現され、フォード社全体で遅れていた独立懸架の本格採用も行われたものである。

以後、リンカーンは年度毎のマイナーチェンジを繰り返しつつ1952年と1956年にフルモデルチェンジを行ったが、競合するキャディラックやクライスラーが過激とも言える大型化・大出力化を進める中、装備面はともかくパワーで劣ったリンカーンは、競合各車の後塵を拝することになり、パワーアップ競争に身を投じ、やがて1958年のモデルチェンジと続く1959年のマイナーチェンジでは、後年まで伝説となった1959年式キャディラックと肩を並べるほど、グロテスクなまでの巨大化デザインと過剰な大出力(1958年モデルは7リッターでSAE基準375HP)に到達することになる。

また市場からはコンチネンタル復活の要望は根強く、フォード側も従来のリンカーン部門とは別にコンチネンタル部門を立ち上げて新車種の開発をはじめ、1955年にクーペモデルのコンチネンタル・マークIIという形で復活した。 価格がロールス・ロイスと同じ1万ドルという超豪華車の人気は最初のうちは好調だったものの、やがて売り上げは減少、わずか3000台あまりを生産したのみでマークIIの製造は打ち切られ、量産セダンシリーズのコンチネンタル・マークIIIに移行したがこれも不評で、マイナーチェンジ版である1960年のマークVの生産中止を機にコンチネンタル部門も解体されてしまう。

しかしコンチネンタルという車種名そのものは存続、1961年のモデルチェンジでダウンサイジングされたリンカーンにその名前を引き継がれ、1981年にコンチネンタルの最上級グレード、タウンカーが車種として独立するまでリンカーンの旗艦車種という位置づけが変わることはなかった。その間に一時収まった大型化はまたもぶり返し、7リッター超の大排気量V8エンジンで豪華装備満載の巨体を動かすというアメリカ製高級車共通の肥大化傾向の流れは、オイルショック期まで留まるところがなかった。

1980年代以降、リンカーンはオイルショックや新車種の開発の遅れによってヨーロッパや日本の高級車との競争に遅れをとったと言わざるをえない状況が続いた。このような状況を吹き飛ばしたのは1998年に発売されたSUV、ナビゲーターの成功である。ナビゲーター発売の同年にはフォード・モーターが買収したヨーロッパの高級車ブランド(ジャガー、ランドローバー・レンジローバー、アストンマーチン、ボルボ・カーズ)とともにプレミアム・オートモーティブ・グループ(PAG)の一員にリンカーンも加えられたが、2002年にフォード・モーターはアメリカ国内と国外のブランドを切り離した新販売戦略を採る方針に転換するため、リンカーンをPAGから除外した。またフォード・モーターはグループ内で開発されたプラットフォームを流用したリンカーンの新車種の投入計画を掲げ、実行に移した。2003年のアビエーター、2005年のマークLT、ゼファー(現・MKZ)、2006年のMKX、2008年のMKS、2010年のMKTなどである。

デザイナー・シリーズ

1970年代よりカルティエやグッチ、ビル・ブラスやエミリオ・プッチなどのファッションデザイナーに内外装を仕上げさせた「デザイナー・シリーズ」(Designer Series )を用意しており、現行型では担当デザイナーこそ存在しないものの、その名称がタウンカーの最上級グレードとして受け継がれている。